フロムアニメイシヨン

始まりましたね、アニメイシヨン。

 

実は先の先行上映で第1話・第2話を視聴済みなので、この文章は16日の朝から夕方にかけて、ドリトスとビールの調達について画策しながら書かれている。これが投稿されるころにはすでに第1話が各々方の目に触れていることだろうから、あのあらゆる意味で問題児なフロムアニメイシヨンについて、少し話してみたい。私はあれを、「ニンジャスレイヤーのアニメ」としての、無限にある最適解のうちの一つ(論理矛盾めいているが、この表現以外にないだろう)だと本気で思っている。

 

先行上映が終わってすぐ、私はこんなことをつぶやいた。内容についてつまびらかにするのは奥ゆかしくない(し、あれをことばで示したらつまらないことこの上ない)のでこういった言い方になったのだが、これはどういうことだったのか。

 

一つ目に、フォーマットの問題がある。

『ニンジャスレイヤー』を『ニンジャスレイヤー』たらしめる、最もファンダメンタルな要素は何か。それはとりもなおさず、「イヤーッ!」と「グワーッ!」で進行し、「サヨナラ!」と「爆発四散」して終わる、あの独特でミニマルな戦闘描写のテンプレートであろう。

これについてはいずれ詳しく書いてみたいのだが、ニンジャスレイヤーとは古今東西のあらゆる題材の、一見無秩序にも思える引用から成る巨大なプロジェクトであり、ともすれば取るに足らない断片の集積へと分裂してしまいかねない。それでも全てのエピソードが『ニンジャスレイヤー』としての同一性を保持していられるのは、極限まで切り詰められ、陳腐なまでに圧縮されたあの描写のスタイル――つまり、どういうテイストの断章であれ、いかなる登場人物であれ、攻撃するときは「イヤーッ」であり、攻撃を食らえば「グワーッ」である、という一連のコードである。

だとすれば、ニンジャスレイヤーをアニメ化する際、保っておくべき最小単位はあのフォーマットだ。そしてそれを忠実に映像に起こすのであれば、映像は同一のものの使い回しでなくてはならないし、出来うる限り陳腐で、それ自体はほとんど無意味でなくてはならない。なぜならそれは「戦闘シーンの描写」である以上に、「これは『ニンジャスレイヤー』である」という、同一性の表明の記号であるからだ。

 

そしていま一つが、「雑コラ感の再現」とでもいいうるようなものだ。

話はやや脱線するが、ファンタジーやSFといった「いま、ここ」と異なる時空間を設定するジャンルの作品においては、概してその世界の「いま、ここ」世界との相違点や、それを正当化するロジックの説明の努力が要求される。われわれの観念や価値観や文化、あらゆるモノ・コトは過去のあらゆる因果の積み重ねの帰結であって、そのセグメントに一箇所でも手を加えようものなら、この世界はいまのありようと180度違っていた可能性すらある。すべてのモノ・コトにはその由縁があり、それらはすこし考えればある程度は遡れてしまうものだ。だからたとえば「魔法がある世界」を設定しようと試みれば、その一点を補強するための膨大な考察と綿密な過去の捏造が必要になる。世界観にほころびが見えてしまえば読者を説得しえないからだ(それを語り尽くすか否かはまた別の問題なのだが)。

だがニンジャスレイヤーは、その努力をおそらくは意図的に放棄した作品である。基本的には現代日本を借用しながら、随所随所で唐突に異物が混ざりこむ(もちろん、これが今作の大きな魅力になっていることは言うまでもない)。

そして『ニンジャスレイヤー』は、それらの異物を当たり前の存在とみなし、強引に物語を進めてしまう。それらがそこに配置されている理由を、いちいちこと細かに説明はしない。字面からして何やら健康被害のすさまじそうな重金属酸性雨、人々がやたらと食べているスシ、チャブの脚や果ては箪笥にまで使われているコケシ、一般家庭にはふつう客人用に備えられているというジュー・ウェア――すべてが乱暴に、雑に、我々の親しむ「いま、ここ」の世界に闖入してくる。あたかも手で破った紙片を斜めに貼り付けるような手つきで。それは、多くのフィクションが細心の注意を払って創作性と地肌とを接ぎ合わせるのとはかなり違った態度だ。

だからこそニンジャスレイヤーは、スキャッターは、ナラクは、あの投げやりとも言える切り抜き状態でなければならなかったのではないか。

 

そもそも『ニンジャスレイヤー』自体、ひとつのコラージュではなかったか。先に述べたとおり、あらゆるハイカルチャーに、ポップカルチャーに、諸言説に触手を伸ばしては切り抜いて我が物とし、一つの作品に収斂させるという、オバケめいた計画だったのではなかったか?

それを念頭に置くなら、キャラクターデザイン担当者が複数居ることにも、各話ごとにEDが変わることにも、なんらの違和感もない。むしろ当然の帰結とすら言えるのではないか。

 

だから私には、『ニンジャスレイヤー フロムアニメイシヨン』が、ある意味でとても原作に忠実で、ある意味で極めて真摯なアニメ化だと思えるのだ。

 

…とかいろいろ書いてきたものの、スタッフがそんなことはつゆほども考えず(ていうか多分考えてないと思う)、あの前衛的作品を完成させたのだとすれば、それはそれでロックなので素晴らしいと思います。

思い出してみればニンジャスレイヤーとはB級の極北なのだから、ドリトスでもつまみながら「なにこれおもしれ~」とゲラゲラ笑いながら鑑賞する(うちに深みにはまってしまう)くらいがちょうど良いのだ、たぶん。

 

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そういうわけでブロッゴはじめました。不束なニュービーですが、どうぞよしなに。

自己紹介は後日改めて。